ある朝、リリーは目を覚ました途端に悲しくなってしまって涙をこぼした。
なんでなのかすぐには分からなかったけれど、少し考えてみて気づいた。
今日は友だちのタビとお別れする日だ。
それもただのお別れではない。きっと、もう絶対に会えなくなってしまう、そういうお別れなのだ。
猫のタビはいつも眠そうで、それでも朝は誰よりも早く起きだしてくる。のだけれど。
今日はリリーが寝間着のまま部屋を飛び出して探しまわっても、どこにも見当たらなかった。
いつもは来ることのない屋根裏に上ってみると、黒いふさふさが古びたクッションの上に丸まっていた。
ときたま昼寝をしているタビを見かけることがある。
そういうとき、タビはびろーんとだらしなく寝そべっている。
誰も自分を害することはないと信じきっている、ずいぶんとえらそうな寝相だ。
そんなタビの寝姿を見るのがリリーは結構好きだった。
それなのに今日は丸く固まって、黒いモップみたいになってしまっている。
長毛の割にあまり綺麗な毛並みではないので、本当に掃除に使った後みたいだ。
「タビ、タビ!」
声をかけてゆすってみてもタビはうんともすんとも言わない。
いろいろ試しても駄目なので、リリーは慌てて師匠の部屋に向かった。
「師匠!」
魔法使いの師匠はタビと同じくいつも眠そうで、でもこちらは見た目のまんまお寝坊さんだ。
開け放したドアの向こうで、ベッドの毛布がもぞっと動いた。
「……朝かい?」
「はい!」
「そうか。でも夜ってことにしよう。おやすみ」
「なに訳の分からないこと言ってるんですかー!」
リリーは走り寄って毛布を剥がしにかかった。
それに抵抗しながら師匠がむにゃむにゃと言う。
「訳分からなくはないよ。今は朝だけど夜なんだ」
「朝と夜が一緒だったら困っちゃうでしょ!」
「困ったら眠ればいい。時間が全てを解決してくれるさ」
「いつ起きればいいか分からないのにー!?」
寝ぼけているくせに師匠はしぶとかった。
それでもなんとか毛布を一部引きはがすとその下からこげ茶の頭が出てくる。
その顔目がけて、リリーはすかさず持ってきていた瓶の中身をぶちまけた。
師匠は一瞬動きを止めて、それからゆっくりと身体を起こした。
「……リリー。これはなんだい?」
「さあ。適当に棚にあったのを持ってきました」
抵抗がなくなったので、リリーは毛布を完全に奪い取ってやった。
「棚の薬には触るなっていつも言ってるじゃないか」
「意味不明なこという師匠が悪いんです」
ようやく毛布の下から現れた師匠は、ぼんやりした顔でリリーの手から瓶をつまみ上げる。
「無意味に悲しくなる薬か」
「なんだ、なら問題ないですね」
「問題なくはないよ、普通の人なら」
「師匠は全然普通じゃないですから大丈夫です」
師匠はしばし考えるそぶりを見せ、それから「まあ確かに」と頷く。
「で。今日はこんな朝早くにどうしたんだい?」
「そうです、大変なんですよ!」
「寝ぼけて魔法で壁に穴開けたとか?」
「違います!」
「じゃあおねしょ?」
「わたしもう十三歳ですよ!」
「でも去年の今頃は」
「わー!」
慌てて師匠の言葉を遮り、リリーは頭上を指さした。
「タビが変なんですよう!」
屋根裏に引き返すと、タビはまだそこで丸まっていた。
師匠を起こしに下りる前と少しも変わっていない。
師匠はそれを見てやっぱり眠そうにぼりぼりと頭を掻く。
「少しも変に見えないけど」
「変ですよ。タビが丸まって寝てるなんておかしいですもん」
「猫は丸まって眠るものじゃないかな」
「タビはもっとでべろんとしてますよ」
でべろん? 師匠が首を傾げた。
構わずリリーは続ける。師匠にいまいち言いたいことが伝わらないのはいつものことだからだ。
「それにタビ、いつもならもっと早く起きてます」
「そうだっけ?」
「ああ、師匠はいつもおそ起きですから知らないかもしれませんね」
ふうむ、と師匠は顎に手を当てた。
こうやって師匠は考える。フリをする。
師匠は大体のことは知っている。しわひとつなくて年齢が判然としない顔のくせして割と長く生きているらしい。
だから考えなくても大抵のことは分かる。逆にいえばそれ以外のことは考えても分からない。
つまり本当は格好だけで、師匠は最初から考えてなんかいないのだ。
まーた怠けるんだから。リリーはため息をついた。
「まあ、タビだっておそ起きしたいこともあるんだろう」
やっぱり役に立たないことしか言ってくれない。
「ちがいますよう。だってわたし、嫌な感じがしましたし」
リリーがそう言うと、師匠は鋭く目を細めた。
「それは、本当かい?」
「はい」
師匠は再びふうむと考え込むフリをする。
今度はさっきより真実味があるけれど、やっぱりフリはフリでしかない。
「じゃあ、タビは死ぬのかもしれないな」
だから師匠は分かり切ったことを言う。
「そんなの分かってますよ。分かってても言わないようにしてたのに!」
さすがにむかっ腹がたって強く師匠を睨んだ。
それでも動じてくれないのが師匠なのだが。
「分かってても本人が言えないことは、誰かが代わりに言ってあげなくちゃいけないね」
「むー!」
「君が嫌な感じを覚えたってことは、やっぱりよくないことが起こるんだろう。それは信じるよ」
だけどね、と師匠は目をこすった。
「それは大抵変えられないことで、ぼくが騒いだところでどうにもならないな」
つまり、いつも通り師匠は肝心なときに役に立たないということだ。
この無感動症! リリーは師匠を追っ払うとタビを静かに撫でてやった。
「タビ……」
タビの体は温かかった。
いつもは触ろうとすると怒るので、こうやって体温を感じることすらなかったのだけれど。
なんだかそのぬくもりが無性に悲しい。
タビはリリーがこの屋敷に来る前からここにいた。
いつもお高くとまっている様子で、それでも毛並みは少し汚れてどこかアンバランスで。
師匠とは長い付き合いに見えるが、リリーの方がタビのことをよく知っている。
相手が困っているときは助けてあげるのが友だちってものだ。
友だちと思っているのはリリーだけかもしれないが、それでも助けると決めた。
タビを撫でる手を、そっと離した。
リリーは勘の良い、というか"見えてしまう"女の子である。
といっても別にお化けとかは見えない。そういうのはいないと思う。
けれど、普通の人が気づかないことに気づいたり、知りえないことを知ってしまうことがあるのだ。
雨の日を言い当てるぐらいなら「すごーい」で済んだ。
でも人が死ぬ日とその原因を"予言"してしまったときはさすがに怖がられてしまった。
それに、天気を当てる程度のものでも積み重なれば不気味にもなる。
だからリリーは六歳のときに師匠に預けられた。
村から少し離れた森のほとりに住む師匠は魔法使いである。
みんなしぶしぶ力は認めているけれど胡散臭がって近寄らない、そんな人だ。
そんな人に預けられるのだからまあ、ていよく厄介払いされたと見ることもできる。
ただ、リリーはそのことについてはあまり考えない。
考えてももう仕方ないし、魔法の勉強に忙しいのでそれどころじゃなかったから。
魔法の世界は奥が深い。いっぱいいっぱいに頑張ってもまだ入口にも立っていない気がする。
分からないことは星の数ほどあるし、勉強するほどにさらに増えていくようにも思える。
生き物はなぜ生まれるのか、生きるのか。死んだものはどこに行くのか、帰ってくることはできないのか――
「あった!」
それでもそれなりに知識はついた。と思う。
リリーが記憶を頼りに見つけたのは、本棚にあった分厚い本の一ページ、ある記述だった。
書かれているのは薬の調合方法だ。
「"むやみやたらと元気になる薬"!」
元気がない人もこれ一本。飲めばたちまち元気百倍。ただし予想外の方向に元気になっても責任は負いません。
最後の注意書きが気にはなったがとにかく、タビを助けるためにリリーが知恵を絞った結果がこれだった。
これならタビも元気になってくれるはず。むやみやたらとって書いてあるんだから効果は絶大だろうし間違いない。
説得力に問題はなかった。調合方法もそんなに難しくない。リリー一人でもなんとかできそう。
けれど、問題は薬の材料だった。
「月王草かあ……」
これが厄介なのだ。
他の材料は問題ない。その辺や森に入れば大体手に入るし屋敷の蔵にもいろいろある。
ただ、月王草だけはそこらで摘んでくるというわけにはいかない。
不老長寿の力を持つとも言われる、珍しい、貴重な草なのである。
しばらく思案して、リリーは遠く離れた町に行くことに決めた。
屋敷からしばらく行った所に村もあるが、そこにはきっとないだろう。小さな村だし。
たくさんの人が集まるあの大きな町になら、きっと月王草もあるに違いないとリリーは思った。
思い立ったら即行動。
リリーはお出かけ用の服に着替えて荷物をまとめると(と言っても小さなポシェットにハンカチとお財布を詰めただけだけど)、さっそく屋敷の門を出た。
師匠が申し訳程度にぼんやり見送りに出てきていたので、適当に手を振り振り道を下っていった。
森のほとりの屋敷を出てしばらく。
風が肩までの金髪をもてあそぶのに任せて歩いていると、道の先に粗末な柵囲いが見えてきた。
村の境界だ。ここを抜けてもっと歩くと町がある。
柵の入口を通ろうとして、リリーはふと立ち止まった。
周りを見渡して、大きめの石があったのでそれを持ち上げる。
「えい」
ぼす。投げた先の地面が大きく陥没した。
「……落とし穴?」
リリーは首を傾げた。
なんとなくそうしようと思ってやってみたらこういうふうになるのはいつものことだ。ただし理由までは分からない。
「あー!」
悲鳴とも怒りともとれる声がして、近くの家の陰から帽子をかぶった少年が姿を現した。
「なにするんだよせっかく仕掛けたのに!」
同い年ほどのその少年には見覚えがあった。
「ルーク?」
「人が一生懸命掘った落とし穴を台無しにしやがって! お前は鬼だ! 悪魔だ!」
「魔法使いだけど」
「そうだ、魔女め!」
村にはあまり来ないのだが、どうやらあちらもこちらを覚えているらしい。
覚えていて話しかけてくる人間は珍しいが。大抵村の人間はリリーたちを煙たがる。
「落とし穴なんて掘ってどうするつもりだったの?」
リリーが訊ねると、ルークは即答した。
「なんかいいじゃねえか、ロマンがあって! 誰かが引っかかったら愉快だし!」
「誰かが引っかかったら、その人困っちゃう」
「そこがいいんだろ」
「誰かが困るのを防いだんだから、わたしは悪魔じゃなくていい人よね?」
「うん? ううん……」
少年はしばし黙り込んだ。それから顔を上げて怒鳴る。
「うっせバーカ!」
「……」
リリーは無視して歩みを再開した。
意味なく罵倒されることには慣れている。
「おい待てよ」
「待たないよ。忙しいんだから」
立ちはだかる少年を迂回する。ルークはさらにそれを邪魔した。
「急いでるの。邪魔するなら呪っちゃうよ?」
自分から近寄ってくる輩は珍しいが、こう言うと全員が怯えて逃げる。
わざわざ好んで魔法使いにたてつく者はいない。ルークを除いて。
「できるもんならやってみろ!」
(困ったなあ……)
本当は人を呪う魔法なんて使えない。そうでなくとも使う気にはなれないけれど。
実は以前からこの村に来るときはたびたびこの少年に絡まれている。
なんとなく今日も会いそうな気がしていたのだが、避けることはできなかったようだ。
ルークはこちらの様子を不審に思ったらしい。
「なんで急いでるんだよ。魔女のくせに」
「魔女は関係ないと思うけど……友だちが大変なの」
「友だち? 魔女に?」
だから魔女は関係ないと思うのだけれど。
仕方なくかいつまんで事情を説明すると、少年はふうんと首を傾げた。
「猫がねえ」
それから不思議そうに続ける。
「月王草ってそんなに珍しいのか?」
「うん。北の高い山のてっぺんにしか生えないんだって」
「とってくりゃいいじゃねえかそんなの」
「だってその山には竜がいるって噂だもの。竜を怒らせると大変なんだよ?」
「魔女のくせに竜が怖いのか?」
「うーん。っていうか、怒らせると面倒っていうか」
「んん?」